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三溪園記念館 The Sankei Memorial

収蔵品案内 書画 III 園内古建築の障壁画

狩野周信 《鶴図》 江戸時代中期        (臨春閣障壁画)
狩野周信(1660〜1728)は父・常信の木挽町狩野のあとを継ぎ、法眼という位を授けられます。周信の母は中橋狩野・安信の娘で、弟には浜町狩野を開いた岑信がいるなど、いわば狩野派エリート一家に育ちました。本図は、臨春閣第一屋鶴の間の障壁画で式台玄関を入ってすぐの部屋に襖10面、壁1面に展開しています。狩野派の作品がそろそろ形式的に陥ってしまいがちになるこの時期にあって、個性的で魅力的な本図は周信の代表作と言っても過言ではありません。

狩野探幽 《四季花鳥図》 江戸時代前期     (臨春閣障壁画)
狩野探幽(1602〜74)は孝信の長男として京都に生まれましたが、江戸に出て徳川幕府に仕える奥絵師となりました。また自ら鍛冶橋狩野を開き、江戸狩野派様式を創始し、以後の画家たちに決定的な影響を与えました。本図は臨春閣第一屋花鳥の間の障壁画で襖9面、壁1面からなります。残念ながら画面の損傷が進み詳細に欠けますが、小禽の表現など、探幽らしい卓越した筆使いがうかがえます。

狩野探幽 《琴棋書画図》 江戸時代前期     (臨春閣障壁画)
狩野探幽(1602〜74)は孝信の長男として京都に生まれましたが、江戸に出て徳川幕府に仕える奥絵師となりました。また自ら鍛冶橋狩野を開き、江戸狩野派様式を創始し、以後の画家たちに決定的な影響を与えました。本図は臨春閣第二屋琴棋書画の間の障壁画で襖7面、壁1面からなります。古来、高士の嗜みとされる琴・棋・書・画の四芸は中国で好んで描かれてきた画題です。広い余白を生かした画面に巧みな筆致でこれを配するなど、探幽円熟期の作品といえます。

雲澤等悦 《山水図》 江戸時代前期       (臨春閣障壁画)
雲澤等悦(?〜1675)は三谷信重ともいい、雪舟や雲谷派の流れを汲む画家で、久留米藩御用絵師をつとめましたが、知られている作品も少なく人物像も明らかではありません。本図は、臨春閣第三屋次の間の障壁画で、襖7面、壁5面からなります。江戸狩野派中心の臨春閣障壁画の中にあって、本図は異彩を放ちますが、鋭い筆線や、墨の濃淡表現の巧みさなど確かな技量の持ち主であることがわかります。

狩野安信 《四季山水図》 江戸時代前期     (臨春閣障壁画)
狩野安信(1614〜85)は孝信の三男で、長兄には鍛冶橋狩野を開いた探幽、次兄には家督を継いだ尚信がいました。事情で宗家を継ぐことになったものの、後に江戸に出て中橋狩野を開きました。安信は技術的に探幽とよく比較されることもありますが、研究熱心で古画の鑑定を数多く行い、また江戸狩野派の組織固めに手腕を発揮するなど事務的能力にも優れた人物でもありました。本図は臨春閣第三屋天楽の間障壁画で床を含む壁9面、襖4面からなり、筆使いの硬さは見受けられるものの、まとまった構成となっています。

収蔵品案内 書画 IV 古美術

《関白秀次仮名文》(豊臣秀次書状) 桃山時代
豊臣秀次(1568〜1595)は豊臣秀吉の近臣三好吉房と秀吉の実姉日秀(とも)との間に生まれましたが、秀吉の実子鶴松の死去に伴って秀吉の養子となり関白の座につきました。しかし、秀吉に秀頼が誕生すると関係が悪化し、関白の職を解かれ切腹を命じられて自害しました。これは、秀次から先に申し入れようとしていた矢先に、「ある人」から先に手紙が届いたため、恐縮して差し出した手紙です。

《豊臣太閤御消息》(豊臣秀吉書状 聖護院あて) 桃山時代(天正16年頃)
これは豊臣秀吉(1536〜98)が聖護院門跡道澄に送った手紙で、草紙、香具などの贈り物に対して感謝の意を表し、その謝礼として沈香十斤を与えた旨が記されています。灸治をしたために疲れているから、この手紙を書くのはあなたが草紙を筆写なされるよりも、はるかに大儀でござるなどと相手を侮った内容となっています。消息の内容や筆跡から推量すると、天正16年(1588)ころのものと思われます。

《秀頼筆豊公御神号》 桃山時代
豊臣秀頼(1593〜1615)は側室淀君が生んだ秀吉の次男で、長子の鶴松が夭折したため秀吉の後継者となりました。秀吉が没すると神格化されて「豊国大明神」の神号が宣下され、各地の大名領地や神社などに分祀されました。これはそのときに秀吉画像とともに祀られたもののひとつと考えられます。関ヶ原の戦の後、秀頼は徳川家康に政権を奪われたため一大名に転落し、のち徳川秀忠の娘千姫と結婚しますが、大坂夏の陣で大坂城が落城し、淀君とともに自害しました