ホーム三溪記念館 > 収蔵品

三溪園記念館 The Sankei Memorial

収蔵品案内 書画 I 原三溪自筆の書画

原 三溪 《蓮華図》 昭和12(1937)
原三溪(1868〜1939)は事業のかたわら自ら好んで絵や書をたしなみました。母方の祖父は文人画家であり、幼い頃の三溪もこの親者に絵の手ほどきを受けたといいます。このようなことからか、三溪の作品は自画賛の入った文人画風のものが多く見られます。特に蓮は三溪が好んで描いた画題であり、たっぷりとした筆使いは巧みで、気品を備えています。本図は茶友であった松永安左衛門に贈られたもので、三溪の蓮のなかでも一番の大作です。三溪の作品は生涯で千点余に及び、それらを選んで昭和5年(1930)から没後に至る昭和15年(1940)までの間に「三溪画集」(第1輯〜第4輯)として出版され、親しい人たちに配られました。
原 三溪 《二日遊関記》 大正6(1917)
原三溪(1868〜1939)は事業のかたわら自ら好んで絵や書をたしなみました。母方の祖父は文人画家であり、幼い頃の三溪もこの親者に絵の手ほどきを受けたといいます。本図は箱根芦の湯に泊まり、長男善一郎やその親友である哲学者の和辻哲郎ら若い友人たちと箱根の名所旧跡めぐりをした様子を解説付きで絵巻にしたものです。同行した各人の様は、軽妙な筆使いでウィットに富んで描かれており、三溪の多才さや人柄を知ることができます。また当時の箱根を知る資料として見る面白さもあります。

収蔵品案内 書画 II ゆかりの作家作品

中島清之 《鶴図》 昭和51(1976)        (臨春閣障壁画)
中島清之(1899〜1989)は京都に生まれ、のち横浜に出て松本楓湖の安雅堂画塾で絵を学びます。院展を中心に作品を発表し、また後に東京藝術大学で後進の指導にもあたりました。その作風は、次々と新しい様式を求め続け、生涯型に捕われることはありませんでした。本図は臨春閣第一屋鶴の間のために描かれた替え襖で、襖10面、壁1面に展開する鶴の飛翔は壮大なリズムを持ち、荘厳さも感じられます。
中島千波 《松林図》 平成2(1990)       (臨春閣障壁画)
中島千波(1945〜)は画家中島清之の三男として疎開先の長野で生まれ、東京藝術大学で学び、院展を中心に活躍してきました。桜や牡丹などに代表されるみずみずしい花の作品、社会性・宗教性に富む人物画の大作、そして装丁画や挿絵など幅広い活動で知られ、現在は院展を離れて無所属で活躍し、東京藝術大学で後進の指導にあたっています。本図は臨春閣第二屋住之江の間のための替え襖で、父清之の後を継いで描かれたものです。長谷川等伯を思わせる水墨表現を取り入れるなど新しい境地を示す試みとなっています
塩出英雄 《園閣》 昭和61(1986) 
塩出英雄(1912〜2001)は広島県福山市に生まれ、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)・日本画科に入学し、かたわら禅や仏教、茶道を学び、また奥村土牛に師事し、卒業後は一貫して院展で活躍しました。この間、日本美術院賞、大観賞、内閣総理大臣賞を受賞し、日本美術院理事等の要職を務め、武蔵野美術大学等で後進の指導にあたりました。描かれている建物は三溪園内の聴秋閣で、新緑の渓間に浮かび上がる建物の様は清浄で、気品あふれる画面からは宗教観さえも感じさせます。第71回院展出品。
下村観山 《雪の朝帰り》 明治44(1911)頃
下村観山(1873〜1930)は和歌山市に生まれ、狩野芳崖、橋本雅邦に師事し、東京美術学校(現・東京藝術大学)の第一回生として入学しました。校長の岡倉天心に認められ、天心、大観らと日本美術院を創設し、狩野派や古典研究を下地に置きながら、気品あふれる画風を築きました。彼は三溪園内で障壁画を描き、また招かれて三溪園に程近い丘の上に住居を構えるなど、三溪が最も好んだ画家でした。本図は浪花節中の一句「雪折れ笹にむら雀・・・」を題材に描いた作品で、観山の画境の広さを示しています。
横山大観 《煙寺晩鐘》 大正4(1915)
横山大観(1868〜1958)は茨城県の水戸に生まれ,東京美術学校(現・東京藝術大学)の第一回生として入学、校長の岡倉天心らの指導を受け、卒業後は同校の助教授になりました。天心が学校を追われると他の教職員と同調し日本美術院を創設し、大和絵から琳派、水墨画などの伝統的技法を継承しながら独自の絵画世界を築きました。三溪は大観芸術の良き理解者であり、援助を申し出たり、原家に招いて制作を依頼したりしたこともありました。本図は瀟湘八景の中から題材を得た1幅で、伝統的な水墨表現を駆使しながらもそこに金泥を併用するなど大観独自の絵画様式がうかがえます。
小茂田青樹 《軍鶏》 大正末頃 
小茂田青樹(1891〜1933)は埼玉県に生まれ、松本楓湖の安雅堂画塾に入門、同塾の牛田雞村や速水御舟らと研鑚をつみ、赤曜会、院展を中心に作品を発表し、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)で後進の指導にあたりました。雞村らの縁で三溪の援助を受けることになり、京都南禅寺付近で御舟らと合宿を行うなどしました。青樹は宋元院体画やデューラーの研究に没頭し、本図に見られるような鋭い自然観察から生み出される写実とそれを一歩踏み越えた詩情豊かな作風で知られています。
高橋広湖 《馬上の誉(加茂競馬)》 明治41(1908)
高橋広湖(1875〜1912)は熊本県に生まれ、幼少のころから父の画塾で手ほどきを受け、上京後、松本楓湖の安雅堂画塾に入門します。ここで、安田靫彦と共に岡倉天心に認められ、五浦の研究所に招かれたこともありました。この間巽画会、紅児会等に出品し受賞を重ね、41年(1908)の国画玉成会には会頭の天心から審査員の指名を受けるほどになりましたが、若くして亡くなりました。広湖は橋本雅邦、下村観山らと同じく三溪が近代絵画へ注目するきっかけとなった作家です。本図は京都上賀茂神社に平安時代から続く競馬(くらべうま)の行事を題材に描かれたもので、衣服の時代考証など広湖が歴史画を得意としたことがよくわかります。この作品は三溪購入の後、さる人物のもとへ新築祝いとして贈られたもので、添えられた三溪の手紙も現存しています。国画玉成会展出品。
速水御舟 《破庭小禽》 大正6(1917)
速水御舟(1894〜1935)は東京浅草に生まれ、松本楓湖の安雅堂画塾で学び、巽画会、紅児会、赤曜会、院展で活躍しました。大和絵の典雅さ、琳派の豪華さ、中国宋元院体画の緻密さに墨絵や洋風画のエッセンスを加味した画風で近代日本画の基礎を築きました。御舟は大正のはじめ頃から三溪に援助を受け、牛田雞村、小茂田青樹と共に京都で合宿を行うなどしました。結婚に際しては三溪が仲人をつとめており、三溪の茶会に招かれることもたびたびありました。御舟は大正6年(1917)に茅ヶ崎から京都寺町大雲院に移り制作をはじめますが、本図はその京都時代の初期のものです。
荒井寛方 《竹林の聴法》 明治44(1911)
荒井寛方(1878〜1945)は栃木県に生まれ、水野年方に入門し歴史画、風俗画を学びます。原家所蔵の仏画を模写したことが縁で援助を受けるようになり、文展や院展で活躍しました。インドの詩聖タゴールを三溪園滞在中に知り、招かれ渡印し美術学校で教鞭をとり、帰国後も仏画を中心に制作を進めました。本図は竹林精舎での釈迦の説法を表していますが、主題を画面外に置いて描かず、そのことで広い空間を得て成功しています。聴衆の衣服描写にも研究のあとがみられ、褒状を得て三溪の購入するところとなりました。第5回文展出品。